株式会社 よしの協業
実は、夫さんは、二つの会社の社長をしております。
ひとつは、自分ちの整備工場。
今までこの日記に登場してるのは、こっちだけだと思います。
(あんまり登場してないけど)
もう一つの会社のほうは、4年前の6月から「理事長」→事実上の社長 になり、
令和3年の2月に組合から株式会社に組織変更したため呼び方が「代表取締役」になりました。(たぶん日記には登場したことがないと思う。・・あったかな?やっぱりないと思う。たぶんだけど。(笑))
この組合は、
まだ奈良県南部吉野界隈がにぎやかな昭和の頃、夫さんの父上の代に、15軒ほどの小さめの自動車修理工場のおやじどもが出資金を集めて作ったものです。
「車検」は、それぞれ都道府県にある陸運事務局にあるコースを通して検査をするものなんですが、
自社でコースを持っている「指定工場」は車を陸運局に持ち込む必要はありません。
そのコースを持たない「認証工場」はお客様から預かった車を陸運局に持ち込んでコースを通して、自分の工場で整備をするという形をとります。
奈良県の陸運局って一番北にあったので、南部からはだいぶ遠いです。(うちから1時間半)
一台一台奈良市まで車を持ち込むとなると、大変なんですよね。。
なので、小さい自動車工場のおやじたち有志が力を合わせて、吉野郡にコースを作ったんそうです。義父さんたちえらい。
自動車の社会って、案外短いんですよ。百年前は一般には走ってなかった。
そんな中小さい工場・・といっても、夫さんのじいさんは「自転車屋さん」そして義父さんは戦前から「オートバイやさん」としてやってきて、そして車社会の発達とともに自動車屋へと変遷してきたわけなので、一応随分古いです。義母さんが嫁いできたときは従業員さんも15人くらい雇ってたみたいです。
今思えば指定工場とってもいぐらいの規模だったのかも。
義父さんが組合の初代理事長なので、人をまとめる力があったのかもしんないですね。(今はよぼよぼのじいさんでも)
んで、
そのえらかった義父さんはもう92歳になっております。
夫さんが小学生の頃なので、組合ができたのが50年前ぐらい。
すごいね。当時にしたら、画期的だったんじゃないかと思う。
お客さんもたくさんだったし、自動車工場のおやじたち、若かった。
この会社?で夫さんが「社長」と呼ばれるようになった経緯は、
まあ、簡単に言えば
「理事長」の肩書きを組合の社長たちの間で順番に回していたんだけど、
それが夫さんの順番に回った時に、田舎が廃れてきて車検のコースしているだけでは従業員を食べさせていくこともできなくりそうなので車検以外の普通の整備をするために株式会社へと組織変更をする必要があったってことです。
もともと「組合」だったこともあり「会社」になってからも、ここは「みんなのもの」という意識が濃いので、夫さんが社長だからって「自分のもの」とは感じてないっぽいです。
でもまぁ、「もう一つの自分とこの工場」とは言ってますが。
・・・。
簡単に言いすぎましたが、組織変更するにはだいぶ複雑だったみたいですよ。
説明ばかり、だいぶ長くなってしまいました。
さて、この工場ですが、
近くに小川(名もない紀ノ川の支流の一つ)が流れていてまして、昔々はその川から水をポンプでくみ上げて車の下廻りの洗車に使ったりしておりました。(今は上水道になってます)
その川に流れ込む「溝」が狭くて、台風などの時、近くの山に降った雨水を受けきれずにあふれてしまうんですわ。
これこのとおり。
↑↑これは、今年の6月の線状降水帯のときのです。
何年か前には、1千万もする機械が水につかってしまったのです。
みんなでやってるから、資金持ち寄って修復できるけど、自分とこだけだと大変です。
(6月のこの時はポンプでくみ出して機械はギリギリ無事でした。)
ここ普段は水の気配がないのでたちが悪いんです。
自力で3年前に会社の前の溝を、深さと幅を3倍ぐらいにしたんだけど、それだけでは追いつかないらしいです。(周りが変わらないので雨水の総量を受けきれないのは変わらない)
国さん?奈良県さん?それとも下市町さん?川なり溝なりなんとかしてくださいよ。
と切実に願う今日この頃。
夫さん、消防団長を卒業してやっと台風でも家にいてもよくなったのに、今度はこっちの工場見にいかなきゃならないとは。
今回の台風にも、土嚢積んで工場の中に水が来ないようにしてました。
いちいち大変な労働です。
今回の台風は、結果としてはこの支流あたりはそれほど強い雨ではなかったらしく、何事もなく済みました。
まったくハラハラさせやがるぜ。