カフェを開きたいと思っていた。


カフェを開くのが長年の夢で。だからこのブログの看板にしてみたのです。

夢を見続けてて、とりあえず、目の前の生活をぼちぼち頑張る毎日。
そこからちょっとのきっかけで夢が動き出し、ついにカフェが現実に!!

さて、ここがゴール?
いえいえいえいえ、ここからがスタート。

自分のカフェを持ち、理想と現実のギャップに悩み。
絶賛、試行錯誤と暗中模索の繰り返し。

みたいな日記。

父が死んだことと、私の後悔

父親が亡くなったのは25年前。
当時、55歳だった。
死因は、肝硬変による肝不全及び多臓器不全。



父は、遊び人で、いつも不摂生をしていた。
入院しているときも「病院の飯はまずい。」と病室を抜け出して、
近所の料理屋に行って食べたり、インスタントラーメン作ったり、
外でタバコ吸ったり。お正月に帰ってきたら、もう麻雀の招集をして、
遊び倒していた。



私がブツブツ言うと。
「おまえはいろいろ言うから、煙たいんや。」と、嫌がられた。
母親や、妹は、あまり小言を言わなかったようだ。
呆れていたのか、先が長くない事を知っていたのか。



父の性格では、食と生活の管理がとても難しい。
わがままだったから。
きちんと、医者から言われたことを守れよと、思いつつも、
たぶん、無理だろうな・・とも、思えた。
食べることや、たばこや、夜更かしや、やりたい事を我慢して、
規則正しい生活をするなんて。



本人は、
「辛抱するぐらいやったら、死んだ方がマシじゃ。」
と言ってた。



でも、
本当に、死んでも良かったと思っていただろうか・・。





肝臓が硬くなって血流が悪くなり、行き場を失った血液が、
食堂と胃の辺りで静脈瘤を作り、それが時折、大出血を起こした。
コールタールのような下血をして、入退院を繰り返した。
黄疸のせいで目が黄色くなって、だるいからか、ゴロゴロとしていて、
そのうち腹水がたまって、痩せているのに、おなかだけ大きくなった。
最期は、肝臓で分解することができなくなった、アンモニアが全身を回って、
だんだん意識がはっきりしなくなっていった。



死ぬってことは、
簡単な事ではない。と思う。
きっと、父も、
苦しかったろうと思う。



医者は、
「こんなことしていては、ダメだよ。」と、柔らかく言った。
病気と、状態と、治療と、将来どうなるかも、素人の私たちに、教えてくれた。



父は、それを聞かなかったために、
死ぬほど苦しい目にあったんだ。



母は、「医者が、親身になってくれなかった。」と、恨んでいる。


私は、それも違うと思う。
医者は、必要な事を伝えていた。
それを信じなかったのは、私達だ。


医者の話は、実感がなかった。
こんなに悪くなるなんて。
こんなに苦しいなんて。
本当に、死ぬなんて。
思わなかった。


・・けど、実感すべきだったんだろうね。



だから、
後悔はある。
違う言い方はなかったのか。
私達も、もっと勉強して、
いつの時が、どこが、命の曲がり角だったのか、知るべきじゃなかったのか。
そして、危機感をもって、
もっと、叱るべきだったんじゃないだろうか。
「こんなことしてたら、死んじゃうよ?」
「楽になんて、死ねないよ?」




いや・・・
きつく叱っても、たぶん、結果は同じだっただろうか。
人の言う事を、聞くような人ではなかったから・・。
結局は、本人がやりたいようにしていたと思う。
生き方は、人それぞれだと思う。
それで、満足なのかな。
満足して、逝ったのかな。






誰も、悪くないんだな。
仕方なかった。
私は、次女を妊娠していたし、亡くなる3週間前に出産して、
看護も、世話も、説教も、あまりできなかった。




本人は、後悔したのかな・・。
「こんなことなら、もうちょっと、ちゃんとすりゃよかったな。」って。
それに気づいたときにはもう、
考える気力も、意識も、無くなってたのかもしれない。



あの時は、精一杯だった。仕方なかった。
と思う反面。


もう少し長く、生きてほしかったなと、思う。
あんな、わがままな、借金いっぱい作ったおとうだったけど、
やっぱり、もう少し生きてほしかった。
低空飛行でも、摂生さえすれば、普通の生活なら送れたはず。
・・・これは、父のではなく、私の願いだ。



無駄だったかもしれないけど、
もっと、叱ったり、励ましたり、手伝ったり、世話したり、
すればよかった・・・。




・・・話が、同じところにばかり戻ってくるな。


どうどうめぐりだ。




これを、「後悔している」って言うんだろうな。

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